キャリアデザインという茶番

大学を卒業して社会人になって、早いもので半年が過ぎた。気がついたときには半世紀が過ぎていると思うと、恐ろしくなって戦慄が走る。まだなんとも、この感覚が正常なのかわからないが、僕の職場はそこそこ楽しい。そして、予想以上に「ホワイト」だ。本当にいいところに就職できたものだと、自分でも感心している。

というわけで、今日は就活について思うことを書く。働き始めたことで、就活について語ることが、僕の中でようやく解禁を迎えた。そして、ここ2年くらい確信を持てずにいた仕事や人生に対する自分の考えが、少しずつ確かなものになろうとしているからだ。

就活中の人は読まない方がいいということは全くなくて、むしろ積極的に読んでくれたら嬉しい。こんな考えのヤツもいるんだという程度には参考になるかもしれないし、あるいは、この記事を読むのに費やした5分間を悔やむことになるかもしれない。だが、そんなことはどちらでもいい。久しぶりのポイズンな記事になるだろうことを、あらかじめ断っておく。

数日前、TSUTAYAの新書コーナーで、こんな本を見つけてしまった。「『やりたい仕事』病」というタイトルが、意識の低い僕の心をつかまないわけがなかった。数ページを立ち読みして、すぐに購入した。内容に関しては、なかなかよかった。書籍としては同じことの繰り返し感が否めなかったけど、主張していることの多くは僕の考えと合致していた。

内容の一部を簡単に説明すると、大学や企業が行う「キャリアデザイン」というものがヤバい、ということだ。人生いつ何が起こるかわからないし、社会も当然変わっていくというのに、キャリアをデザインすることにどれほどの意味があるのか。そして、それによって人生の可能性をむしろ狭めているのではないか、ということを本書は問いかける。

最近の大学は、自分の就職するべき企業を見つけるために「やりたいこと」や「適職」を探しなさい、そのためには「自己分析」をしっかりしなさい、と学生たちに言う。採用面接では「入社したらどんな仕事をしたいですか?」という定番の質問が繰り返され、明確に答えることのできないものは除外される。そこにあるのは、やりたいことを持っていなければ働くことさえ許されないという空気であり、それが学生たちを「やりたい仕事」病に陥れ、苦しめている。やりたい仕事ということを考えすぎて(あるいは考えさせられすぎて)、やりたい仕事でなければ働く動機を持てなかったり、やりたいことが見つからないことに悩んだりする学生が多いのだという。やりたいことがあってそれを仕事にできるならそれは素晴らしいことだが、ただ純粋に「働きたい」というだけではダメなのだろうか。それらに優劣が付けられていいのだろうか。僕はいつも「やりたいことはわかりませんが、どんな仕事でも一生懸命やります」と答えてきた。なぜなら、僕たちは労働者だからだ。

僕の通っていた大学も例外ではなかった。2年にもなると、大学はやたらと就活の準備を強要してきた。自分の人生を決めることになる大切な1年間なのだから、しっかりと自己分析をしてキャリアをデザインしなさい、と彼らは言うのだった。もちろん、僕は信じていなかった。自分の人生を決めるのは新卒一括採用などではなく、一枚のクッキーの味であるべきだと考えるくらいには、僕は十分に詩人だった。そして、それが一部の業界と大学よって毎年繰り返される壮大な茶番だと知っていたし、それに付き合うことが自分の利益になるとはよほど思えなかったからだ。大学が主催する就職セミナーと呼ばれる半ば強制参加の催しにさえ、僕は全く参加しなかった。まわりの友人たちは、僕を本気で心配していたか、あるいは呆れていた。

友人たちがリクルート社主催の大規模な合同説明会に行っている頃、僕は地元のハローワークの説明会で手頃な求人が転がっていないか探していた。そこで見つけた会社に履歴書を送り、そして採用された。それが僕の就職活動のすべてだった。

説明会に参加している企業のなかには、「うちはキャリア教育に力を入れている。やりがいもあるし、成長できる」と主張していた会社も少なくなかったが、興味がわくことはなかった。会社に自分のキャリアを教育されたくなかったし、欲しいものはやりがいや成長などではなく、心身ともに健康的に働ける職場環境と、多少の賃金だった。そして、僕が選んだのは「うちはめっちゃハードだけど、そこそこ楽しい」と言っていた会社だ。

僕の選択はおそらく正しかった。想像していたほどハードではないし、残業代はきちんと出るし(あたりまえのことだ)、忙しいなりにそこそこ楽しく働けているからだ。そして、何よりいいのが、面倒くさいことがほとんどないという点だ。友人たちの話を聞いていると、毎日帰りに事細かな業務日報を提出させられる会社や、書籍を渡されて感想文を提出させられる会社なんかも少なくないらしい。僕の職場はそういうことはまったくない。キャリアとか成長とかいう類いの単語がオフィスを飛び交うことも、もちろんない。

というわけで、僕は全くキャリアをデザインしないまま仕事に就いた。そして、今後もデザインする予定はない。計画するということは、その計画に狂いが生じたときに再計画しなければならないということだ。そんな面倒なことはやってられない。もっとも、なぜ人生というスケールで就職あるいは仕事について考える必要があるのか、僕には理解できない。明日のことだってわからないのに、どうして30年後の自分を計画できるというのか。僕は、そこそこ楽しく過ごせればいいかな、という程度にしか人生について考えたことはないし、ぶっちゃけそれでどうにかなると信じているし、どうにかしていく根拠のない自信がある。そして、その楽観的な考え方が自分自身を生かしているということを、僕は知っている。

仕事というものについては、多様な考え方があると思う。人生そのものだという人もいれば、収入を得るためのひとつの手段にすぎないという人もいるだろう。ひとつの会社で定年まで働こうと考えている人もいれば、数年ごとに転職したいと思っている人もいるだろう。僕は、とてもシンプルなものだと思う。労働力を必要としている企業と、賃金を欲しいと思っている市民がいる。それだけのことだとなのではないのだろか。

最近の僕のポリシーは「置かれた環境で、常に真摯に行動し、最大のクオリティを」である。

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コメント

  1. IPPEI より:

    Mr.taizan
    僕はまだ、一周回って意識が高いのかもしれません。素で意識低い人に憧れたりもするけど、そういう人々にとっては意識の高さという軸そのものが存在していないわけだよね。僕は、まだまだです。
    コメントありがとう!

  2. taizan より:

    意識の低さを語るうちはまだまだ意識が高いけどな!!