2012年も早いものでもう年末、今年もあと1週間を切ってしまった。僕はまだ1枚の年賀状も書けていない。それなのに、今こうして交響曲第9番作品125を聞きながらブログを書き始めてしまうのはなぜだろう。たぶん、年末だからに他ならない。

さて、こんな話の枕は置いといて、今日のトピックはずばり「文系・理系・体育会系 ― カテゴライズ好きな僕たち」である。

文系って何してるの?
何のために、何を学んでるの?
というか、そもそも学んでるの?

これは僕が実際に耳にした、理系学生が文系学生に対して放った言葉である。このような言葉はあまりにも頻繁に聞くし、もはや「またか」という感じで以前ほどは何かを感じることもなくなったが、それでもやはり、このような言葉の蓄積が文系学生を「文系コンプレックス」に陥れているのかと思うと、ちょっと待てよと一石を投じたくなる。待てよというのは、このようなことを言う理系学生に対してではなくて、文系コンプレックスなるものを抱いている文系学生に対してである。そんなもの抱くことないじゃないかと。

そもそも、いったいなぜ文系は理系より劣っているというような謎の空気があるのだろうか。それはきっと大学受験のシステムに原因がある。僕たちは高校1年の冬にもなると文系理系の選択を迫らるわけだけど、そのとき数学や物理学といった理系科目が苦手な人の一部は消去法的に文系を選択する。そして、やりたいことを見つけないさいと先生たちに繰り返し言われているうちに、何となくやりたいようなやりたくないようなことを、いつしか本当にやりたいことだと思いこんでしまい、なんとなく進学する。そういう人は、意外と少なくないと思う。消去法的にというのは、文系は受験科目が圧倒的に少ないからだ。私立文系なんかだと、英語、国語、社会1科目だけで受験できるなんてことはデフォルトである。そのような大学受験の困難さの違いが根底にあるために、文系より理系のほうが優等であるかのような空気が蔓延ってしまっているということは、大いにあると思う。

そんな背景もあって「何を学んでいるの?」というような問いに対して、曖昧な答えしか出せない文系は僕も含めて多いと思う。だけど、無理もない。曖昧な動機で進学しているから、自分でも一体何を学べばいいのかわからない。

そんなことを感じながら大学生活を送ってきたわけだけど、実際に経済学部(しかも私立文系)で4年間を過ごしてみて、少しだけあまりにもうっすらとわかってきたような気がする。これでよかった、何の問題もないと、今なら思うことができる。

僕は今まで本当にやりたいことがなかった。やってみたいことはいくつかあったけど、どれもそこまで執着しているわけではなかった。僕たちは、中学校、いや小学校のうちから、「将来やりたいことは?」「夢に向かってがんばろう!(キラキラ)」というようなことを大人たちに言われ続けてきた。そう言われれば言われるほど、やりたいことなんてわからなくなったし、やりたいことや夢がなければ生きていてはいけないとでも言うかのような世の中に違和感を抱いてきた。自分の夢に確信を持って勉強している理系の人たちからしたら(みんながみんなそうとは限らないけど)、なりたい職業すらよく分からない僕のことを「え、なんで?」と思うのも無理もない。

だけど、やりたいことや夢がなくても十分に生きていけるし、それがいけないことだとは僕は全く思わない。いや、むしろ、やりたいことが全くない人なんていないと思う。今夜は読書をしたい、週末は家族でバーベキューに行きたい、好きな人とランチに行きたい。こんなありふれたことだって、やりたいことには他ならない。国防長官になって国を守りたい!という壮大な夢と比べたら、確かにベクトルも大きさも違うかもしれない。でも、どっちがエラいとかそういう話じゃない。それなのに先生たちは、ことあるごとにアインシュタインやスティーブ・ジョブズのような偉人の例を出しては、「夢は大きく!」とか言っちゃうんだ。まさに夢と希望の押し売りである。

おっと、少しばかり脱線してしまった。そういうわけで、ヘソが135°くらい曲がっていた僕は、夢とか洒落臭え!と思いながら今まで生きてきた。就職活動が始まる時期になってもこんな調子だったから、広告関係からガソリンスタンド業まで面接に行ってしまった(結局、それらの中間くらいの業種に落ち着いた)。

そして今は、少しだけど、自分のやりたいことや生きたいスタイルがわかってきた。もちろんそれは僕の心の中でとどめておきたいからここには書かないけど、実に素晴らしく、美しい夢だ。一体何がこの一つの解を導いたのかを考えてみると、私立文系学部の中で得られた時間的余白と精神的余白だと思う。その中で、僕はあまりにも無意識のうちに様々なベクトルのことを学んでいた。経済学の講義を受けることはほんの一部にすぎなかった。カメラを持って街を歩くこと、喫茶店で読書をすること、家電量販店を半日物色すること、ザザム紙を作ること、Twenty Fourを見ること。これらすべてが余白のなせる僕にとっての学びになり、複雑に絡み合い、ひとつの解を導くことにつながったのだと思う。もしかしたら、このニュアンスは多くの人に理解されないかもしれない。あまりにも僕の内面的なはなしだからだ。

例によってまた長くなってしまった。華麗に読み飛ばした人のために簡潔に要約しておくと、やりたいことがわからなかったから何となく文系に行って、4年間大学にも通いつつ、いろんなことをしているうちに、就職先も見つかったし、自分の人生のスタイルみたいなものも少しだけど見えてきた、文系も悪くないじゃん、ということ。そして、理系の多くが大学に入学する段階でやりたいことが明確であるのに対して、文系はそうでもないかもしれないけど、それらは優劣を付けられるべきことではないということだ。

僕たちはどんなことに対しても理由付けをすることが好きだ。そうせずにはいられない。すべての物事には根拠が必要で、いつからか世の中はロジカル至上主義になってしまった。もちろん理由や理論も大切だけど、僕たちはもっと感覚的に、そして素直になっていいと思う。美味いから食べる。かっこいいから買う。かわいいから惚れる。死ぬのはいやだから生きる。すべてはもっとシンプルで、シンプルなものは美しくて、強い。それもまた、このモラトリアムの中で僕が見つけた一つの解なのかもしれない。