例によって週に1回くらいは誰かしらからPCやスマフォイフォイに関する電話がかかってくる。そして、それらの7割が「ネットがつながらない!」というものだ。最近ではMacユーザーも結構増えてしまって、Macを持ったことのない僕にとって、その設定画面を思い出しながら説明するのは至難の業だ。Windowsならだいたい覚えているので外出中でも説明できるのだが、Macとなるとそうもいかないのでスクリーンショットを画像検索しながらである。最近はだいぶ覚えてきたが、しかし僕もそろそろMacBook Airの1枚くらい買わなければいけないと、本気で思っている。
7割を占める「ネットがつながらない!」という症例の約半分は、あまりにも驚くべきことに、PCかルーターの再起動で解決する。PCは再起動したんだけどダメなのよ、と言う人が結構いるが、ルーターは再起動してみただろうか。一度試してみていただきたい。
こうしてルーターを再起動していると、人生はインターネットのようだと、しばしば思う。端末から送信されたデータがたくさんのルーターを経て相手に届くように、人生においても生まれてから死ぬまでの間、多くのルーター(分岐点とでも言うべきだろうか)を経て人生のゴールへと向かっているような気がするのだ。
生まれて死ぬ、というあまりにも自明すぎるスタートとゴールだけは誰にでも定まっていて決して変えられないが、それ以外の途中経路は組み合わせとして無限の道がある。どこかのルーターがダウンしていても他の経路でデータが転送されるように、多くの選択肢から道を選ぶことを僕たちは常に許されている。あるひとつの道が閉ざされようとも、容易に他の無限の経路を選ぶことができるのだ。そして、どの経路をたどろうとも、僕たち自身は人生のゴールへと向かう。
だから僕はいつも、人生について多くを考えることはしない。いま目の前にある分岐点でどの経路を選んだとしても、辿り着く最後は変わらないし、もし間違えたと思っても、またすぐに分岐点が現れて僕たちに選択肢を与えてくれると信じているからだ。ある友人はしばしば言っていた ― 人生はうまくできている。
しかし、どうにも進めなくなったときは、人生のルーターを再起動することができる、というのはあまりにも無理のある表現かもしれないが、案外そうでもないかもしれない。外へ出て空を見上げて60秒、まあいいかとつぶやけば、なんとなく大丈夫な気がする、気がする。
こうしてよくわからない考えをめぐらせていると、インターネットというものは本当に美しいと思う。人生のようだという理由ももちろんある。だが、それ以上に、当たり前のように使っているけど、地味に、でも確実につながっているという不思議がそこにはあるからだ。それは見えない美しさだ。見えないからこそ美しいというものは、実はいっぱいある。SNSは僕たちの友人関係を見事に可視化したが、それは必ずしも美しいと言えるだろうか。インターネット、あるいは僕たち人間の文明自身も大きな分岐点を迎えているのかもしれない。
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