2010年代の始まりを飾った形容詞は、ほかでもなく「つながり」だろう。そして、TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアも、レイト・マジョリティに差し掛かり、「つながり」という抽象的な言葉だけでは、私たちは満足しないようになってきた。それらをどう活用していくかという、意識の高い領域を既に迎えた。

数年前、Webそのものがそれこそレイト・マジョリティだったころ、人々はそれを「情報のカスケード」と呼び危惧していた。なぜなら、オンラインには情報があふれかえり、それらは偏り、散らばり、点在していたからだ。だが、すぐに時は流れ、Webは熟れすぎた柿のようになった。コピペだけで作り上げされたいわゆる「まとめサイト」やWikipedia、あるいはリツイート、そして「キュレーションの時代」という名の書籍などからもわかるように、Webにあふれる情報は、とにかくまとめられて、すべての人々にとってわかりやすく整形されることが流行るようになった。よく言えばWebが万人のものになってきたということかもしれないが、少し落ち着きすぎてしまった。

タイムラインに流れてきたリンクを開いて流し読みするだけで、十分に満腹な気がしてしまうところに、現代のWebの怖さがある。情報は、ネットサーフィンなどしなくても受動的に得られるようになってしまった。キュレーションの時代は、決して情報を見えやすくしているのではなく、一握りの情報だけを見えるようにしているにすぎない。

《参考》イノベーター理論