ある授業のレポートで、梶井基次郎の「檸檬」について書いた。提出したのはちょうど、東京を梅雨前線が去ったころだった。

どんな課題だったかというと、日本の近代文学をひとつ取り上げて、感想でも書評でもエッセイでもいいから書きなさい、という極めて僕好みのものだった。今日成績が発表されて、ありがたいことにA+だったので、(どや顔で)公開しようと思う。おもしろいかはともかく、読んでいただけたら幸いです。


写真共有アプリのInstagramが10億ドルでFacebookに買収されるというニュースが世界を少しだけ驚かせたのも、もう季節ひとつ昔の話になってしまった。東京はやっと梅雨が明けた。

Twitterに写真をアップするなら、とにもかくにもInstagramで正方形にトリミングして色を淡くすることが美とされている意識の高めな昨今に、梶井基次郎の「檸檬」はとても(いや、意外というべきだろうか)しっくりとくる。100年近く前の小説だというのに古さを全く感じさせないのは、その雰囲気が今の時代にあながち対応できるからだと思う。例えば、「埃っぽい」と形容される丸善の中の空気感は、Instagramで淡い色合いに補正された写真に通じるものがあり、それは意識の高い視点からすれば極めて肯定的なものだからだ(梶井も以前は好きだったように)。

梶井にとって丸善は、現代でいうところの意識の高い空間だったはずだ。そして、それは以前までは好きな場所であった。以前までというのは、おそらく、肺結核を患う前の心身ともに健康だったときのことだ。そこに存在している香水や煙管、書籍、学生といったものたちは極めてクールだった。しかし、それは同時に脆弱な存在でもあったために、肺結核を患い精神的にも病んでいくと、そこはもはや憂鬱が立て込めてくる場所になってしまう。取り出した本を元の位置に戻すことさえできないほどに。

レジスタンス ― 生きることは、これに尽きるのではないだろうか。梶井は、以前とは違う丸善に(変わったのは丸善ではなく梶井なのだが)、檸檬を持ち込み、積み重ねた画集の上にそれを置く。これこそ、丸善や社会あるいは時代に対する梶井のレジスタンスそのものだ。檸檬は、埃っぽい空気を吸収して、その空間のコントラストを一瞬にして強烈にする。その効果として、檸檬は最適だった。大きさ、形、重さ、そして何よりレモン色という他には形容しようのない色は、とてつもない力を持っていたからだ。「爆弾」になりうるほどの力だった。

そしてまた、それはユーモアという爆弾でもあった。ユーモアこそがその空間を超越することができる絶対的な強さを持っていて、それは梶井にとって必要だった。すたすたと丸善を後にした彼は、微笑まずにはいられないのだった。梶井は、爆弾というユーモア、すなわちユーモアというレジスタンスによって、「気詰まりな丸善」をこっぱみじんにしたのだから。

気詰まりというのは、気の抜けない、あるいは不自由、もしくは文頭の言葉を借りるなら得体の知れない不吉な塊に心を押さえつけられている感じとも説明することができるだろう。この感じは現代にも、というよりはいつの時代にも同じように蔓延っているものだ。知的好奇心を抱き、それをクリアしていくことこそが人間の義務であるというような風潮は、いつだって街の空気のより重いものにし、僕たちを息苦しくさせている。それはもちろん、今も昔も変わらないし、丸善の中だけの話ではない。これこそが、この小説が現代においても決して色あせることなく、むしろしっくりくると、僕が言った理由なのだ。

「すべてはこの重さなんだな」 ― 安部公房が一度手にして離せなくなる「鞄」と同じように、梶井の袂にある檸檬も「ちょうどいい重さ」といえるかもしれない。丸善に入って画集を取り出している間は忘れかけていて、やがて、それが袂に入っていることを思い出すくらいの、あまりにもさりげない重さ。そして、同時に爆弾にもなり得る絶対的な重さだ。檸檬や鞄にちょうどいい重さがあるように、街や学生やカフェにもちょうどいい意識の高さがあるだろう。そのバランスが崩れかけたとき、起き去られた檸檬はそっと爆発するのだ。


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檸檬(梶井基次郎)