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物書きになるのが夢だったのかもしれない

2005年にブログを始めて、早いものでもう8年目になった。何度か移転をしてきたので、このブログで4つ目になるわけだが、記事の総数はなんと1,420にもなる。決して物書きになりたかったから続けてきたわけではないし、続けているうちに物書きになりくなったというわけでもない。そもそも、物書きになるのが夢だったのかと聞かれても、かもしれないとしか答えられない。その程度のものだけど、それでもなんとなく、こうして細々と続けてこられたのは、僕が文章を書くことが好きだったからに他ならないと思う。

8年間続けてきて何か特別なものを得られたかというとよくわからないけど、ひとつ言えることは、ちゃんと文章を書けるようになったということだ。8年前というと高校2年くらいになるわけだが、当時の記事を読んでみると、表現はどうしようもないほど拙く、文法的にもおかしいところばかりだ。内容だってたいして面白いわけじゃない。それには無理もなくて、当初は日記を書こうと思って気楽に始めたわけで、面白くしようとか、いいこと書こうとか、そんなことは全然考えてなかった。ただの日記のつもりで8年間続けているうちに、気がついたら、こんなに長くて面倒くさい記事ばかり書くようになってしまっていたというわけである。笑

あくまでも僕の感覚的なところだけど、そこそこ面白くなってきたのはここ4年くらいで、キレが出てきたのはここ2年くらいだと思う。桃栗三年柿八年とかいうことわざがあるけど、文章を書くことや写真を撮ることといった、いわゆるセンスと呼ばれる類いのものは、それが自分のものになるまでにそれなりの年月を要するのだろう。才能がある人は最初からできるのかもしれないけど、残念ながら、いや、幸いなことに僕にはそれがなかった。

ちなみに、2年前というと、ザザム紙とかいうフリーペーパーを作っていた頃で、信濃毎日新聞の斜面をパロディした「池面」というコラム欄を書くのに夢中になっていた(ボツになったネタも含めて池面タグにまとめてあるので、よかったら読んでくれると嬉しい)。たぶん、そのあたりで、主張にオチを付けた短い文章を書くということにハマって、それからブログのクオリティがぐんと増したような気がする。

余談というわけでもないのだけど、写真にもそんなようなところがある。写真を撮り始めて13年くらいになるが、最近になってようやく「撮れるようになった」という感覚を持ち始めた。本当にここ2年くらいのことだ。撮れるというのは、もちろんシャッターを押せば写真なんてものは簡単に撮れるのだけど、そうではなくて、自分が意図したものをその場で冷静に考えて撮れるようになったということだ。構図や露出、被写体とのコミュニケーションの取り方といったものが、感覚としてわかってきたのだと思う。多くの指南書が多くの構図パターンを解説しているけど、それらをいくら読んだところで、自分の感覚として体得することができなければ、現場では役に立たない。知識は使われて初めて意味を持つ。そして、どのようにして体得するのかというと、結局のところ写真を撮るほかにはない。ここ2年くらいでようやく、シャッターを切った瞬間に「あ、今の気持ち悪い!」とか「今のはいいぞ!」とかがわかるようになってきた。そして、写真を撮ることがより楽しくなったし、自分の撮る写真が好きになった。

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Twitterとかいう短文投稿サービスの出現は、僕たちのインプットとアウトプットをあまりにも簡単なものにしてしまった。「これはすごい!」の一言を添えるだけで、それら2つのプロセスが一瞬にして完了してしまう。それが悪いことだとは言わないし、このような「流れる時代」に適したスピード感も大切だとは思うけれど、そればかりになってしまうことは少しだけ味気ないような気もする。

僕自身も、Twitterにひどくハマって、ほとんどブログを書かなくなってしまった時期があった。Twitterが楽しかったからそうなったのだけど、あるとき、そのツイートたちがどこにもアーカイブされていないことに気がついた(自分の心の中にさえも!)。何らかのTwitterアーカイブのサービスも使ってみたけど、それは意味がなかった。一日のツイートをつなげて表示したところで、それらがまとまっているわけではないからだ。その時々で好きなことをつぶやいているのだから当然だし、それがTwitterなのだから仕方がない。そうして、Twitterなんかでは自分のアウトプットが満たされないと思い、またブログを書くようになった。いったんTwitterにハマるという行為を経てからのブログは、むしろ楽しかった。140字でいかに書くか、みたいなことを意識してきたおかげで、ブログの記事にもキレや深みが出てきたという側面があるからだ。

ライフハック系の記事でも文章の書き方とかいろいろ言ってるけど、結局のところあんなものには限界があって、大切なのは自分の文体(文章のスタイル)を持つことだと思う。接続詞の使い方や、助詞や副詞の位置、倒置法、そして無生物主語など、言語には多くのテクニックがあって、それらを組み合わせることでスタイルが築かれていく。それらは、本をたくさん読んだり、ブログをたくさん書いたりしているうちに自然にできあがっていくものであって、どこかのハウツーを読んで習得できるほど単純なものでは決してない。そして、最も重要なことは、誰一人として同じスタイルを持つ人はいないということだ。

なんだかまたよくわからない記事になってしまったが、結局何が言いたかったのかというと、文章を書くことを習慣化しておくのも悪くないということだ。楽しいか楽しくないかはハマってみないとわからないが、文章が書けるということは何かといいことが多い。例えば、普段から長すぎるブログ記事を書いていたせいで、大学のレポートはほとんど苦に思わなかったし、疑わしいかもしれないが、定期試験や就活などの論述試験なんてむしろ楽しかったくらいだ。ブログだと4,000字とかデフォルトだから、試験では「1,200字?足りないなあ…」みたいなことになってしまうのだ(だからこそ少ない字数で書けることが重要なのだけど)。

ブログを書くことも、写真と同じように、ここ数年で本当に楽しくなってきたと、強く実感している。頭の中をただよう断片を、以前よりすんなりとアウトプットできるようになったからだ。大切なことは、インプットとアウトプットのバランスだと、僕は思う。小さい頃から大量の教科書を読まされてくるわけだが(多すぎるということではない)、それに見合うだけのアウトプット、つまり自分の思いを文字にして書くことは、ほとんどさやらされてこなかったように思う。「今日はみほちゃんとオオイヌノフグリを見つけました。楽しかったです。」という程度の日記や、あるいは読書感想文くらいだったし、大学生になっても出せば単位になるレポートくらいだった(人によるだろうけど)。僕はやっぱり、常に持論をアウトプットしていないと体が訛ってしまう。何かを書かされるのではなくて、自分の書きたいことを書く。そうしていないと、頭がむくんでしまうのだ。だから割と必然的に、8年間続けてこれたのだと思う。

そういうわけで、今日の記事はブログも悪くないよ、というはなしでした。ブログをやったことがない人も、昔やっていたけど離れてしまった人も、何かを始めるのに春は素敵な季節ですよ。いつも読んでくれてありがとうございます。それでは、また。

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