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安定感みたいなもの

先日、富士山を撮りに行ってきた。昨年の秋に山梨の昇仙峡から撮ったときから、もう少し近くで撮りたいと思っていた。一番長いレンズでも50mmまでしかないので、壮大な富士を撮るには自分が近づくほかにないのだ。というわけで、今回は河口湖の北から撮ってみた。時間帯は午後3時~4時くらい。フォトショでぐりぐりやってるからマシに見えるけど、実際には花粉だか黄砂だがのせいで空気は結構かすんでいた。

Mt. FUJI, 2013

この写真を撮ったあと、サンセットの撮影によさそうなポイントを探していたら、それがなかなか難しくて、そうしているうちに日が暮れてしまった。なんとも残念だ。裾野の曲線美を撮りたかったのだが、あまり近づきすぎると森に入ってしまい裾野どころではないのだ。高速道路から見える裾野は結構いい感じなんだけど…。また機会があれば、少しはロケハンをして、最高の構図と絶妙のタイミングで撮れればと思う。サンセットの斜光が染めるディテールは、それはきっと美しいことだろう。

自分で言うのもあれだけど、しかしながら、この写真もなかなか洒落乙だと思う。左手前の山と橋が写真全体のコントラストを高めてくれた。富士と空だけを見ると非常に淡い写真なのだが、全体的に見るとちょうどよく締まっているのだ。

写真を撮り始めて12年以上になるが、最近ようやく、写真をちゃんと撮れるようになってきたという実感を持ちはじめた。過去の写真をたまに見ると、あまりにも下手すぎて、おかしくて仕方がない。構図は意味不明だし、水平は保ててないし、露出もいいかげん。とりあえず人にカメラ向けて、笑ってくれて、はい撮りました、みたいな感じ。風景写真だって、逆光で何かをシルエットにしておけばかっこいいと信じていた。

僕の撮る写真に「安定感」みたいなものが備わりはじめたのだと思う。写真の安定感という話は、音楽でいうコード進行の話と少しだけ似ている。構図の中に、ドミナントやサブドミナントがあり、しかし結局はトニックでした、みたいな写真が僕の好みであり、僕のスタイルだ。音楽家が何百曲も作曲しているうちに自分の曲のスタイルみたいなものを確立していくように、僕も写真のスタイルが確立してきたのだと思う。

それは人によってさまざまで、僕のようにトニックな写真を好んで撮る人もいれば、これからサビが始まるような(早くサビに入ってくれよ!という焦燥感を抱かせるような)写真を撮る人もいる。どちらがいいとかいうことではなくて、どちらもいいのだ。大切なことは、自分がどんなスタイルの写真を撮りたいのかということ、つまり、どんなニュアンスを伝えたいのかということを意識して撮ることだ。撮りたいものが、春の静けさなのか、風吹き荒れる春なのか、という違いは、同じ時間に同じ場所で撮られた「春」を全く別なものにするはずだし、しなければならない。

なんだか無駄に回りくどいことを書いてしまった。結局のところ、被写体に何を語らせたいのかを少しだけ考えながら撮るというだけのことにすぎない。例えば、アスファルトに散っていく桜の花びらを「寂しい」と感じたら、どのように撮れば寂しいニュアンスが伝わるかを考えて撮るということだ。そういう意識を少しでも持つことで、普段スマフォイフォイで撮る写真でさえも、一段と洒落乙なものになるのである。

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