日曜日の夜、休みを惜しむかのように、私は京王線の各停に乗り橋本へ戻る。休みが終わってしまう、心の中でつぶやく。まだ家には帰りたくない。橋本駅の書店に立ち寄り、買いもしない本を何冊も見ては歩く。私と同じようにして日曜のラストを楽しむ、あるいは惜しむ人々が、みんな仲間のように思えてくる。30分ほど物色し書店を去るが、それでもまだ物寂しくて、スターバックスへ寄る。この街に来てからというもの、スターバックスでは「ラテ、ホット、トール」しか言葉を発していないような気がするが、結局はショートのそれをオーダーしてしまう自分がいる。

書店では何を買ったらよいのかわからなかった。秋だし、読書したいし、いろいろ得たいものは山のようにあるはずなのに、何を買ったらいいのか、どうにもわからないのだった。

日曜の夜は、いつも私を切なくさせた。というような無生物主語にあふれる本を私は求めた。私は常に受動的でいたかったのだ。日曜の夜は酷であったが、一方で、土曜の海は私を元気にさせてくれることが多かった。私は、そうして受動的になることで、街を感じた。風や季節、誰かの愛、そして自分を感じた。日曜の夜や、土曜の海以外にも、すべてがつながっているように思えた。スターバックスのラテのように、時に雑踏の街が私にエネルギーを与ることもあれば、夕方の中央特快のように、公園のカップルたちの存在が私を萎えさせたりすることもあった。

そんなこんなで、心の浮き沈み激しい一週間の最後の最後は、こうしてスタバに寄ってしまう、いや、寄らざるを得なかった。それは故意ではなく、必然でもなかった。それは、私もわからなかった。ただ、その前を通ろうとするとき、それが日曜の夜だったりすると、ついドアを開いてしまうのだ。