エッセイ(つづき)

さて、肝心の続きです。でも、ケータイからでPDFが開けないという人も少なくないはずなので、とりあえず本文を文末に貼っておきます。

ちょうど1ヶ月ほど前から、ゼミ選抜のシーズンなのです。学部の人数より全ゼミの定員はかなり少ないので、もちろん全員が入るわけではないのですが、ほとんどの人が何かしらのゼミに応募して、受かったり落ちたりしている、そういう季節です。で、私はというと、入学当初から入りたいと思っていた、表現系のゼミ(やってることはよくわからないけど、唯一潜在性を感じることができた。教授は文章表現の授業を担当)に応募したわけです。まあ、広告業界を目指している私にとってはぴったりだったような気がします。

その際の1次選抜課題が「夢(睡眠時に見るもの)」に関するエッセイ、小説など形式は自由、というものでした。私は困りました。未来を描く夢に関しては簡単かもしれませんが、睡眠時に見る夢というテーマなんて考えたこともありません。それは、ただ見て、ただ忘れるという、単なる生理的なものにすぎないからです。

まあ、それでもなんとか書きました。俊太郎くんのアドバイスも非常にありがたいもので、締め切りギリギリで提出することができました。その後、ゼミ別の倍率一覧が公開され、それによると約3倍でした。うちの学部では超人気にカテゴライズされる倍率です。

私は、あのエッセイをもってして、まさか1次落ちするとは夢にも思っていませんでした。本来なら面接の日程が書かれているはずのメールには、「あなたは1次落ち、残念でしたー」という趣旨の内容が書かれていたのです。コネが全くなかったのは事実ですが、しかしながら、なぜこのエッセイが落ちたのか。一瞬、発狂したい気持ちになりました。でも、すぐに自分を取り戻しました。

私のExpressionは、多くの時間を経て独自のベクトルで育ててきたものです。決して、誰かの下で「習得」したものではありません。写真も、ギターも、そして文章も独学でやってきました。blogを始めて5年ほどが経ちました。当初の記事を読んでみると、文章の煩雑さ、表現の乏しさに笑えてきます。

せっかく築き上げてきたExpressionのベクトルを、他の誰かによって修正される必要はない気がしたのです。それは、パッシブではなく、アクティブに築かなければ本物ではないのです。これからもblogをちゃんと書いて、写真を撮って、本を読んで、いろいろやっていかなければいけない。そんな決意のいい契機になりました。知識をストックすること、そしてアウトプットをとおして確かなものにしていくこと。ゼミに落ちたことで、課題が増えた気がします。

ああ、何を書いているのだろう。言い訳をたらたら述べたような気がしてなりません。でも、それは事実ではないかもしれないけど、真実なのです。きっと、西の方のN島くんあたりは、こんな程度のエッセイじゃ落ちて当然だよ、とか思われているかもしれませんが、どうかご容赦ください。秋の終わり、尾崎、夢、恋。この字数にしてはトピックが多すぎるし、軸がぼやけているような気がしないでもありません。後から冷静に読むと見えてくる部分です。

『忘れな草と君を想う冬』

「君が教えてくれた花の名前は、街にうもれそうな小さな忘れな草」――街は次第に寒くなり、イルミネーションが灯り始める季節、私はどうしても思い出してしまう。尾崎豊のForget-me-not。それは思い出の一曲。そこには、川原とギターと私、そして、あいつの眼差しがあった。いつ聞いても、私に恋をしたい衝動を与える。忘れな草という不思議な名の花は、「私を忘れないでください」という花言葉を持つ、かわいらしい水色の花。尾崎とは似ても似つかないような水色だけれど、切ないラブソングの最後を飾る体言としては洒落乙だ。

先日、授業で爆睡していたら、珍しく夢を見た。いつもの睡眠で見る夢は忘れがちだが、なぜだか授業中に見る夢というのは割と覚えているものだ。すごくいい夢だったからかもしれないが――。

IPPEIくん、一緒に帰ろうよ。最近気になりはじめた女の子が、帰り際に私を誘う。二人はどうでもいいことを語りながら、どこへ向かうのかもわからずに行く。しばらくすると、広い場所に出る。一面のコスモスが夕陽に照らされている。そして、夕陽は私たちをも照らす。二人は交わす言葉さえ忘れ、コスモスの中に立ちすくんでいる。秋風に揺れるコスモスのような淡くて切ない恋に、落ちる予感を覚える。

おっと、そこまで。残念、目が覚めてしまった。限りなく悔しい。一番いいところだった。そうさ、夢はいつも残酷。肝心なところを見せてくれない。まだ授業は続いている。続きが見たくてもう一度寝てみたが、やっぱり続きは見せてくれない。それにしても、なぜこんな夢を見たのだろう。私が彼女を想っていたから、あるいは、彼女が私を想っていたからか。ただ、ひとつ感じたのは、夢の中で彼女は私に何かを伝えようとしていたこと。でもまあ、所詮は夢。深入りしない方がよさそうだ。

ところで、私たちはなぜ夢を忘れてしまうのだろうか。寝ていたからか。いや、そんなに単純な理由ではない。その理由はきっと、「夢中毒からの解放」だと思う。私たちは、夢を忘れることで、夢に執着せずに済む。もし、夢を忘れることができなければ、先の私もあの子のことを一日中考えていたに違いない。夢(つまり妄想世界)に執着して、現実に戻れなくなってしまうのだ。そのような状態に陥れば、もはや私たちは迷える子羊も同然となる。なんて怖いことだろう。要するに、目覚めた瞬間に自分をちゃんと取り戻すために、私たちは夢を忘れるのだと思う。

だけど、忘れちゃいけない。夢は、私たちに大きなエネルギーを与えてくれる。幸せな気持ちにさせてくれることもあれば、起きたら不意に涙をこぼしていることもある。見る夢が今の自分とアンビバレントであるほどに、目覚めたときに感じるものは多く、ときに焦りさえも与えられる。夢中毒もこわいが、夢を見なくなることはもっともっとこわい。

街を行く人々がマフラーを巻き始めるころ、私は本棚から尾崎のアルバムを探す。

読んでいただき、ありがとうございました。

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