案の定、Facebookをやめることはできなかった。強い依存性があるとは聞いていたが、ここまで激しいものだとは思いもしなかった。iPhoneからアプリを削除したり、ブラウザのブックマークを削除してみたりと、様々な対策を講じてみた。だが結局、数週間でまた同じように開くようになってしまった。iPhoneだろうがPCだろうが、ブラウザの検索窓にfと打てば続きはオートコンプリートされるのだから無理もない。検索して開くという動作に一度慣れてしまえば、ブックマークやアプリの有無はそれほど問題ではないのだった。

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そうはいっても、Facebookに対する向き合い方は大きく変わった。程よい距離感を取れるようになって、閲覧時間は圧倒的に減った。アプリを削除したことで通知が来なくなったことは大きい。自分が見たいと思ったときのほかは、開く必要がなくなったからだ。

そして、なにより変わったのは「いいね!」を押さなくなったことだ。Facebookやめます的な記事を書いてから、実は全く押していない(これは驚くべきことだ)。もちろん、押したくなるときは常にある。友達がアップした素敵な写真や近況、あるいはYouTubeのリンク、純粋に素晴らしいと感じるものばかりだが、心を鬼にして押さないように心がけている。

どうして僕は、こんなにも「いいね!」を押すことに抵抗しているのだろうか。それはきっと、「いいね!」の持つ意味が単純に「よい」というだけのものではないからだ。コンテンツがよくても悪くても、あるいはどうでもよくても、それは常に押されている。相互の承認欲求を成り立たせるためのボタンだからだ。「相互の」というところがあまりにも重要で、実際、友達のコンテンツに「いいね!」を押さなくなってからは、自分のアップした写真にも「いいね!」があまり押されなくなった。

本当にいいと思ったものにだけなら押してもいいのではないか、とも考えた。だが、その閾値(しきい値)は次第に下がっていき、また安易に押すようになることはわかりきっていた。だから、押さないことにした。ただ、端から見たら、Facebookやってるのに頑なに「いいね!」を押すことを拒んでいるヤツって、ただ限りなくウザいと思う。それは仕方のないことだ。郷には従えとは、まさにこのことだ。

一方で、本当にいいと思ったら、コメントを書き込んだり、あるいはオフラインで会ったときに「あの写真よかったよ」の一言を伝えられたらいいと思う。その気持ちは「いいね!」ボタンで伝える必要はないし、きっと伝わらない。

僕は結局、何のためにFacebookをやめていないのかというと、僕の撮った写真を友達に見てもらいたいからだと思う。その手段として、Facebookなら、ブログやTwitterなどに比べて割とよく見てもらえるのではないか、ということだ。そして、友達にカメラを向ければみんないい笑顔を見せてくれるわけで、それを独り占めしてしまうのはあまりにももったいない気がするのである。

というわけで、「IPPEI、Facebookやめれなかったよ」という話と、それについての愚かな弁明でした。ではでは。