学校教育は走り方を教えてくれなかった

どうも、こんばんは。ガジェット系ランナーのIPPEIです。

ランニングを趣味としていない同僚に「昨日は軽く15km走ったよ」なんて話をするとたいてい、僕のことをクレイジーだといい、おまけに「私、走ることは大っ嫌い!」と必ず言う。そりゃそうだよな。

ランニングブームの昨今だけど、それでも走ることが嫌いって人があまりにも多すぎる。僕は、その原因は小中学校の体育の授業にあるのではないかと密かに思っていた。いつものように少しばかりポイズンな記事になるので、あらかじめ断っておく。

頼むからそっとしておいてください

Xでなかなか興味深い記事が流れてきた。まずは、このポストのリンク先にあるtogetterにあるヒャダインさんのエッセイを読んでみてほしい。

この機関誌にこの内容でよく掲載OK出たなという話は置いといて、文章の善し悪しも置いといて、あまりにも素晴らしいエッセイだった。

僕もヒャダインさんと同じように、体育の授業が嫌いだった。なんでかって、全般的に下手くそだったからだ。単独競技ならまだしも、ボールを用いたチームスポーツ(球技と呼ばれている)は特に苦痛だった。ボールは狙った方向には飛んでいってくれないし、体に当たると痛いし、僕のせいで仲間に迷惑をかけてしまう。大人になればすごくどうでもいいことのように思えるが、小中学生のころの僕にとってはあまりにも深刻なことだった。運動会も好きじゃなかった。

今でこそ、某バラエティ番組なんかで運動音痴芸人なんかが笑い飛ばされているが、そうは言ってもそれはテレビに限った話だ。ヒャダインさんも言っているように、笑ってくれればまだマシで、まわりの冷ややかな視線は子どもにとってはどれだけ惨めなものか。「頼むからそっとしておいてください」というタイトルからも、ヒャダインさんがどれだけ辛い思いをしてきたのかが僕には想像できる。だが、残念なことに、そういう子たちの苦悩が、この機関誌を読んでいる体育教師にどれほど理解されるかは未知数である。体育の授業も、20年前とは変わっていればいいなと思う。

余談だけど、音楽の授業もそういう側面があるよね。中学のときに、4人一組でみんなの前で歌わされる(しかもハモって!)授業があった。僕は幸い音楽はできたので平気だったけど、歌うことが苦手な子にはかなり苦痛だったに違いない。そういえば、僕の父親は人前で絶対に歌わないんだけど、理由を聞くと、子どものころ合唱の練習で「おまえは音痴だから口パクしておけ」と教師に言われたことがトラウマになっていると言っていた。そういう言葉って呪いのようなもので、死ぬまで忘れないんだよね。あまりにもひどい話じゃないか。

さて、そういうわけで運動できない芸人あらためブロガーの僕が、いまではランニングを第一の趣味としているのはいったいなぜだろうか。

運動音痴の僕がランニングマンになるまで

僕が小学生だったころ、学校行事としてマラソン大会がしばしば開催されていた。たったの5~10km程度だったと思うけど、当時はとてつもなく長い距離に感じたものだ。

ありがたいことに、小学生だった僕は(自覚はなかったが)足がそれなりに速かったようで、毎回わりと好成績でゴールしていた。そんな僕でさえ十分にツラいと感じていたくらいだから、走ることが苦手な子にとってはマラソン大会なんてものは、台風で中止にでもなるべき、地獄のような一日だったのだと思う。

しかも、ゴール地点では最後の方になるほどギャラリーからの声援が大きくなり、それはおそらく屈辱以外のなにものでもなかったはずだ。そして、そういった苦い経験によって、生涯をとおして「走ること」が嫌いになってしまうのだとしたら、実にもったいないことだ。

学校教育として(たいていは体育の授業として)行われる持久走には、はたしてどれほど意味のあるのだろうか。体格も性格もそれぞれ違う生徒たちが、しばしば過酷な環境で、一律に長い距離を走ることは、どれほど子どもたちの心身を鍛えたり、健康に貢献するのだろうか。僕にはよく分からない。

僕の記憶にある限りでは、体育の授業で「走り方」を具体的に指導してくれたことはなかった。先生から言われたのはグラウンドを10周という指示だけだった。歩くことや走ることは人間の基本的な機能であり、教わらなくても誰でもできることなのだが、僕を含む市民ランナーから言わせれば、それはとても難しく実に奥が深いことなのだ。シューズの選び方からというのはさすがに難しいかもしれないが、靴紐の縛り方、疲れにくいフォーム、ペースのコントロールなど、ほんの少しのアドバイスがあれば、多くの子たちがより効率的に、そして楽しくランニングができたはずだ。

僕も当時は適当に走っていたし、それほど楽しいとも思っていなかった。社会人になって同僚に誘われてハーフマラソンに出たことがきっかけとなり、マラソン(まだハーフだけどね!)を趣味にするようになった。当たり前だが、初めてのハーフは制限時間の3時間ギリギリ、何度か足がつって、泣きそうになりながらゴールした。

そこから、少しずつ練習をして、マラソン系YouTuberの動画を見るようになり、フォームを意識して走るようになった。やがて、長い距離を走ることが苦ではなくなってきて、もちろんペースも改善した。いまでは、ハーフマラソンを1時間40分で走れるくらいになったし、日頃のジョギングもゆっくり走ってキロ5分が当たり前になってきた。

ランニングに限った話ではないが、何より大切なものは「知識」だと、つくづく思う。もしこれが20年前のようにYouTubeもInstagramもない時代であれば、ここまでのめりこめなかったかもしれない。ランニングに関する書籍を買ったこともあるが、やはり動画で人の動きを見て勉強できるというのは大きな利点だ(しかも無料で!)

小中学生のころをあらためて思い出すと、体育の持久走はやっぱり間違っていたと思う。教員みんなが陸上の専門ではないのかもしれないが、そうはいっても調べて研究して噛み砕いて子どもに伝えることはできるはずだ。今日日であれば、それこそYouTubeの動画をいくつか見せるだけでもいいだろう。そして、グランドを10周走らせる前に、まず靴紐の縛り方とストレッチを1時間かけて教えてほしい。走るのはその次だ。たまに子どもたちが走っているところを見かけるが、いいフォームの子もいれば、とんでもないフォームで苦しそうにしている子もいる。フォームひとつ改善するだけで「走るって意外とツラくないんだ!」ってなるんだけどな。すごくもったいないと思っちゃうんだよね。

体育なんて、ストレッチと軽いジョギングくらいでイナフだと思う

ヒャダインさんのエッセイを読んであらためて思う。体育の授業って好きな人、嫌いな人、どっちでもない人がいると思う(当たり前体操)。問題なのは、どちらかというと、好きな人に合わせて設計されている点ではないだろうか。

極論と言われるかもしれないが、僕は学校教育における体育なんて、ストレッチとジョギングまたは散歩、あとはスポーツ観戦だけでいいと思う。筋肉を適度にほぐして、学校の周辺を1時間ほど好きなペースで歩いたり走ったりするだけ。電子デバイスで疲弊した目を休めて遠くの景色を見たり、自然の音を聞く。体にとってはそれでイナフだし、健康ってまずそこからだと思う。

その程度の授業であれば、運動音痴な人にとってもそれほど苦痛にはならないと思う。ヒャダインさんも言っているように、「体育」の授業のせいで「スポーツ」が嫌いになってしまうことは、本末転倒、じつにもったいないことだ。プロじゃないんだから競争なんかしなくたっていい。もっと走りたい人はプライベートで走ればいいし、サッカーやりたい人は地域のクラブに入会すればいいし、泳ぎたい人はプールに通えばいい。

例のtogetterを読んでいたら「体育の授業でしか輝けない子もいるんだよ」みたいなレスもあったけど、僕はヒャダインさん側の人間なので、勢いあまってこんな記事を書いてしまった。それから、ねんのためにことわっておくと、体育教師も様々だと思う。運動音痴な子も心から楽しめる授業を展開している教師もいるはずだし、そういう人が多ければいいなという期待を込めて、一概に批判しているわけではないので、そこのところは理解していただきたい。

部活動もいらないよねっていう記事を以前いくつか書いたけど、それに触れはじめるとこの記事の終わりが見えないので、今日はこのくらいにしておこうと思う。

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